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【春風読書のお誘い3】サン=テグジュペリ(3)

【春風読書のお誘い3】
本当は前回で終わりだった
サン=テグジュペリ読書シリーズ、
もう1回だけ延長戦。

「2回にわたって『うまく語れない』で済まそうとする部分を言語化せよ」
というリクエストをいただいてしまいました。
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『戦う操縦士』の中で述べられて、
『星の王子さま』へと続く表現の中で、
またファシズムと民主主義の戦いの中で
彼が伝えようとしていたこと。

なぜ言語化が難しいかと言うと、誤解が生じやすいから。
でも、誤解を怖れていると、
また陳腐なまとめになってしまいがちで、
これもまたサン=テグジュペリが表現しようとしたものから
離れてしまうからです。

『戦う操縦士』の中でサン=テグジュペリは、
ほぼ確実に死が待ち受ける戦場へと
偵察飛行へ出かけることになります。
フランス軍の大尉でもあり、
自ら望んで最前線に立っているサン=テグジュペリが
戦場で死ぬことを怖れているわけではないのですが、
それでも気が進まない出発。
その理由は、軍上層部への不信感です。

彼の所属した飛行大隊は、3人編成の23組中、
3週間の間に17組を失うという惨憺たる状況。
命懸けの偵察飛行で仲間は帰還せず、
稀に持ち帰った貴重な情報も、作戦には反映されず、
ドイツ軍を押し返す手段すら無い。

それでも、ただ死ぬためだけに飛行機を飛ばす愚。

戦況好転の兆しも無いまま飛行機を飛ばすといえば、
我が国では神風特攻隊の事例が思い浮かびます。

同じルートの偵察飛行に既に2機が飛び立ち帰還しない、
このような状況下で飛び出し、運良く生きて帰った彼が、
帰還後に何を思ったのか。

人は何の為なら自らを犠牲にするのか。

「わたしは戦う。個人に対する≪人間≫の優越のためにーそして個別的なものに対する普遍的な優越のために」

「わたしは戦う。≪人間≫のために。≪人間≫の敵に抗して。だが同時に、自分自身にも抗して。」

という部分、うっかり抜き出して読んでみると、
「国家の為に私は命を捧げるのだ!」的な
愛国心を鼓舞する本なんだと誤解されかねません。

読み手の力量を問われるところです。

ひょっとしたら、アメリカが孤立主義をやめて、
ドイツと戦う決意をしてもらうには、
そんなプロパガンダ的に読ませる方が良いのかもしれませんが
(実際は本書執筆中に真珠湾攻撃が行われ、
この本はアメリカを連合国の仲間入りをさせるという目的を
果たさずに済みました)。

サン=テグジュペリが何のために「犠牲」になろうとしたのか。
部隊のため、フランスのため、そこから更に文明全体、
人間主義(ヒューマニズム)のため、というところに至ります。

キリスト教の国の人であるので、
もちろん神と人との関係性という例え話も出てくるわけですが、
「個人」とか「自由」とかいうものが自分一人の利益の為に使われたり、
「集団」とか「国家」というものが、
誰かの偉大な内面を制約するために大きな力を持ってしまったりする時に、
もっと高い視点でものを見なければ、と思わせます。

第二次世界大戦下のヨーロッパでのこの思索は、
同時代の日本や、戦後70年以上経った日本で、
どのように受け止められるべきでしょうか。

「犠牲」というものを考える時のサン=テグジュペリは、
地所(土地)を愛するあまり、自分が破産してもなお、
その地を救おうとする人の例を挙げます。

「犠牲とは、手足の一部を切断することでもなければ、罪を贖うために苦行をすることでもない。それは本質的にひとつの行動なのだ。自らのものとしたい≪存在≫に対して自分自身を捧げることだ。地所がなんであるのか理解できるのは、自分の一部を犠牲にして、それを守るために奮闘したり、美しくするために苦労した者だけだ。そうしてはじめて地所への愛が生まれるのだ。地所とはそこからあがる利益の総和などではない。それは間違いだ。地所とはそれに対して捧げたものの総和なのだ。」

ちなみにこの部分、『星の王子さま』の名シーンにも出てくるのです。

「あんたたちは美しいけど、ただ咲いてるだけなんだね。あんたたちのためには、死ぬ気になんかなれないよ。そりゃ、ぼくのバラの花も、なんでもなく、そばを通ってゆく人が見たら、あんたたちとおんなじ花だと思うかもしれない。だけど、あの一輪の花が、ぼくには、あんたたちみんなよりも、たいせつなんだ。だって、ぼくが水をかけた花なんだからね。覆いガラスもかけてやったんだからね。(中略)不平もきいてやったし、じまん話もきいてやったし、だまっているならいるで、時には、どうしたのだろうと、きき耳をたててやった花なんだからね。ぼくのものになった花なんだからね」

自分や自分の属する集団よりも、
もう一段高いところから考えるというのは、
「神様」という一種のフィクションを用意する方が
やっぱり分かりやすいのかもしれません。

ヨーロッパにおけるキリスト教はそういう役割を果たしますし、
それが無い日本人は単なる獣かと問われた時に、
新渡戸稲造は「武士道」を持ってきたりもしました。

「神様」にしても「武士道」にしても、国家に利用されがちですが、
そこを何とかサン=テグジュペリの言う
≪人間主義(ヒューマニズム)≫というところへ持って行きたいところです。

この点はかつての新渡戸さんも今の僕も苦慮しています。

大聖堂って石材からできているわけですが、
石材が沢山並んでいても大聖堂にはなりません。
大聖堂の方が(つまりは幾何学や建築学、あるいはそれを考える誰かが)
個々の石材に意味を与えて大聖堂を築き上げることになります。

とすれば、文明を構成する人間も、
ただ寄り集まっているだけでは人間の群れにしか過ぎなくなります。

人間の場合は、大聖堂の設計士を選ぶ為に、
石材よりももう少し頑張る必要があります。
ある者は自ら進んで大聖堂の基礎になるべく
形を変えていかなくてはいけない。

考え続けないと大切なものが見えなくなってしまう。

「われわれは与えることをやめてしまった。ところが、もし自分自身に対してしか与えまいとするならば、私はなにひとつ受け取ることはない。なぜなら、自分が属するものをなにひとつ築かない以上、私は何者でもなくなるからだ。誰かがやってきて、何らかの利益のために死ぬよう要求したところで、私は断固拒否するだろう。自分にとっての利益は、まず生きることだからだ。では、どのような愛に突き動かされれば、自ら死へと身を投じるだろうか? 人は家のためになら死ぬ。しかし家財や壁のためには死なない。大聖堂のためになら死ぬ。しかし石材のためには死なない。国民のためには死ぬ。しかし群衆のためには死なない。人は≪人間≫への愛のためには死ぬ、もしその愛が≪共同体≫の穹窿(きゅうりゅう)を支える要石であるのなら。人が死ぬことができるのは唯一、それなしでは自分が生きられないもののためだけだ。」


結局これだけの文字数を費やし、
随所に引用文を盛り込んでみたものの、
はっきりとした回答はできないままに終わってしまいました。。。

最後は『星の王子さま』のキツネの言葉で。
「なに、なんでもないことだよ。心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」

【春風読書のお誘い1】サン=テグジュペリ(1)
【春風読書のお誘い2】サン=テグジュペリ(2)
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プロフィール

春風~はるかぜ~

Author:春風~はるかぜ~
春風珈琲。コーヒー好き。コーヒーが生まれる場所を見たくてエクアドルのコーヒー生産者に会いに行き、ご近所の生産者のことが気になり始める。フェアトレードって途上国だけのことなのか。色んなところでコーヒーを淹れて、ゆるやかな時間を作ります。出会った人達の商品を紹介中。歴史と京都と町家も好き。京都→長岡京へ遷都しました。

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